音の記憶 第5回 無限に変奏されるアリア:バッハの「ゴルトベルク変奏曲」

ヨハン・セバスティアン・バッハ (1685-1750)
日本では「音楽の父」と呼ばれるが、それはバッハ以前の作曲家に対して失礼ではないだろうか。とはいえ、バロック音楽の完成者の一人であり、その影響力は計り知れない。

主題:「ゴルトベルク変奏曲」をもっと楽しむために

「ゴルトベルク変奏曲」世界初の録音。1933年ワンダ・ランドフスカによる演奏。

まず結論から言いますと、多様な演奏の解釈を受け入れる包容力こそがヨハン・セバスティアン・バッハの音楽の偉大さであると私は常々思っています。演奏者によって曲の印象が変わるばかりではなく、それでいて音楽の根っこにあるものはブレない。もちろん、今回取り上げる「ゴルトベルク変奏曲」も例外ではありません。

同じ曲の様々な録音の聴き比べは、例えばワイン通が様々なメーカーのものを比較して、この香りはチェリーだの、バニラだの、ペッパーだのと言うのと同じぐらい、大抵のひとにとっては「言われてみればそういう気がする」、あるいは「どーでもいい」ことなのかもしれません。今日は「ゴルトベルク変奏曲」の単なる聴き比べではなく、様々な名手の演奏に触れることで、バッハを聴いたことのない方でもこの作品を楽しむための、私なりに考えた3つのポイントを紐解いてみたいと思います。

第一変奏:全曲をざっくり聴いてみる ~ すべてはグールドで始まった

「まずは全曲を聴いてみましょう」って、はい、当たり前のことですね。ところが「ゴルトベルク変奏曲」はそれが意外と難しいかもしれません。全曲の演奏時間は平均でだいたい1時間20分ぐらい。音楽好きでない人には、これはちょっとハードルが高い。しかし!グレン・グールドが1955年に収録したこの全曲演奏は40分弱。この長さなら通勤のときに、料理をしながら、あるいは仕事後にリラックスして聴くにはいいタイミングではないでしょうか?

この録音、実はグールドのデビュー作ですが、テクニックの鮮やかさはもちろんのこと、万華鏡のように変わりゆく変奏の数々がテンポよく連打されて、息を呑む素晴らしさです。曲の解釈の歴史からみてもある意味決定版ともいえるもので、後に続く鍵盤楽器奏者のほとんどは「ゴルトベルク」の演奏するにあたって、この作品の影響を受けるか比較される運命となるでしょう。

「ゴルトベルク変奏曲」の魅力は何といってもその構成の美しさにありますので、まず全体像(主題「アリア」~30の変奏~主題「アリア」)をざっくり掴んでおくと、後々他の録音も聴きやすくなると思います。ヨーロッパの教会でも、日本の寺院でも何でもいいですが、大きな建築物をまず遠くから眺めてその形状に見とれるように、弱冠23歳グールドの疾走感溢れる演奏をまず聴いてみてください。

第二変奏:神は細部に宿る ~ 個性派たちの挑戦

さあ、あなたが遠くから眺めた教会はもう目の前に聳え立っています。次は建物を支える柱、光り輝くステンドグラス、要所要所に配置された彫刻、細部に施された精妙な装飾の数々を堪能していきましょう。「ゴルトベルク変奏曲」は同時に流れる複数の旋律によって構成されています。私たちの耳は、どうしても一つの旋律に集中したがる傾向がありますが、訓練すれば同時に2つ以上の声部を聴き分け、その「会話」の妙を楽しむことができます。ステンドグラスとその脇に配置された装飾のバランスを同時に楽しむことができるように。

「ゴルトベルク変奏曲」の各声部をとりわけ明確に浮き彫りにしたのが、次にご紹介するウラジミール・フェルツマンのライブ録音です。

賛否両論あるかと思いますが、この演奏でフェルツマンはバッハの指定通りの音を弾かず、オクターブ下の音を加えてみたり、それぞれのメロディーを変えずに高音と中音域の声部を入れ替えて、あまり目立つことのなかった副旋律にスポットを当てる、といった実験を試みています。私はこの録音を初めて聴いた時、今まで散々聴いていた曲なのに、どれだけの多くの音を聴きこぼしていたかを発見して、耳から鱗の落ちる思いをしました。

もう一つ、全く別のアプローチでバッハの仕掛けた声部の綾を描き出したボブ・ファン・アスペレンの録音をご紹介します。

各声部のテンポ感を微妙にずらしてみたり、というのはまだ普通ですが、この演奏では一般的に速いテンポの変奏曲を、極度のスローテンポで弾いています。これはバッハの書いた音を一音たりとも漏らさずにしっかりと響かせる、という「原典中心主義」的なアプローチかと思います。「ゴルドベルク変奏曲」がじゃがいもづくしのコース料理だとしたら、アスペレンの演奏はあくまで素材の味にこだわる調理法と言いましょうか。味付けは塩!→しょうゆ!→バター!→みそ!→また塩!みたいなストイックさ。正直言って人によっては聴き通すのが難しいかもしれませんが、私にはこのともすれば単調に聴こえる演奏が、すべての変奏曲がたった一つの主題から派生しているという紛れもない事実を逆説的に証明しているように思えてなりません。

どの変奏曲からも主題の「アリア」が仄かに浮かび上がる、という当たり前だけど忘れられがちな形式性。演奏者が30もある変奏曲をいかにバラエティー豊かに弾くか、という課題に挑むのは自然なことですが、「味付け」に心をくだくあまり、「素材」の味が失われる罠にずっぽりはまってしまう演奏も(「大御所」と認知される演奏者でさえ)中には存在します。誰とは言いませんが。こういった演奏は一見華やかで独創的に聴こえるかもしれませんが、私にはバッハの音楽に対して不誠実に思われますし、はっきり言ってあざとい。

第三変奏:「アリア」は歌う ~ 無限に拡がる変奏

全体像、そして細部の構成が耳に馴染んできたあなたは、既に「ゴルドベルク変奏曲」の虜になったはず。この章では名手たちの様々な演奏をご紹介しますが、いよいよ「ワイン通」顔負けの蘊蓄(うんちく)の領域に入ってきました。どの解釈も同じに聴こえるかもしれないし、違いを言葉にするのさえ難しい。しかし、この微妙な差異を味わうことこそ、演奏者の個性に触れることですし、クラシックを無限に楽しむコツなのです。

バッハから与えられた豊かな「素材」をいかに料理するか?ここで私が注目するのは演奏者の歌心です。しかし、この「歌心」というやつほど説明が厄介な代物はありません。何を以てして歌心というのか?と問われても、それが歌に聴こえたらそうだとしか言いようがありません。まあ、要は聞き手を演奏に惹きつけることのできる「何か」なのですが、それは音質かもしれませんし、様々な声部をバランスよく配置する構成力かもしれませんし、音楽が今まさに目の前で生まれた瞬間に立ち会ったかのようなプリミティブな感動かもしれません。そしてその「何か」は、演奏者の人柄が自ずと立ち上がる、一貫性のあるものでなければなりません。

有名どころですと、このマレイ・ペライアの録音がお勧めです。グールドの解釈にとても近いですが、各声部を丁寧に弾きこみつつ、それぞれの変奏曲のバランスもしっかりと計算に入れている。品のある落ち着いた演奏ですが、尚且つ随所でハッとするものがある。かなり理想的な解釈ではないでしょうか。

ピエール・アンタイのこの演奏にも、ペライアについてのコメントをすべてそのまま当てはめることも可能で、自らの語彙力の乏しさにがっかりですが(笑)、チェンバロ演奏特有の歯切れ良いフレッシュさも楽しめます。やはりバランス感覚のある演奏に魅かれますね。

そして私にとってとっておきの「隠し玉」はコレ、エフゲニー・コロリオフの録音です。硬軟の音色を使い分けつつ、実に安定したゆるぎない「ゴルトベルク変奏曲」。それぞれの声部からしっかりと歌が聴こえてくるところも私の好みなのであります。

最近の演奏ですと、某人気ピアニストの録音は私には全然ダメで、「素材」の味を信じずゴテゴテ味付けしただけの一貫性のない演奏にしか聴こえないのですが、その点アンジェラ・ヒューイット、ラルス・フォークトやイゴール・レヴィットはさすがに趣味が良くて素晴らしい反面、もっと従来の解釈を突き破るような押しの強さが欲しいところです。解釈が出尽くした感がある現在、新鮮さを打ち出すことの難しさを感じます。

ダ・カーポ:何も変えるな、すべてが変わるために ~ グールド、ふたたび

さて、話題は再びグレン・グールドに戻ります。彼は死の前年、1981年に再度「ゴルトベルク変奏曲」を録音しています。つまりグールドの録音のキャリアは「ゴルトベルク」で始まり、「ゴルトベルク」で終わったわけです。デビュー作以後に録音された数々の「ゴルトベルク」はグールドのそれと比較される運命を背負わされましたが、それはグールド自身にも言えることでした。1955年版は確かにそれほど決定的でしたが、ニュアンスに乏しい部分もありますし、構成力よりも勢いを重視したきらいがあり、それは彼自身が一番自覚していたのではないでしょうか。

1981年版はその不満を吹き飛ばすかのように、骨組みから細部に至るまで精緻に組み立てられており、しかもグールドにしか出せないような独特な歌心に溢れています。特に各変奏曲のテンポ設定が絶妙としか言いようのないもので、それが曲の構成の美しさをさらに際立たせているように思えます。

こちらは1981年版の映像ですが、48分39秒からスタートする変奏曲の27番、28番、29番と三つ続けて聴いてみてください。何か奇妙なことにお気づきになりましたか?そう、リズムの拍が3曲を通じて変わっていないのです。このように、グールドは本作で拍を持続させる実験を随所で行っています(例えば9番から10番への変わり目もそう。このビデオでいうと18分あたり。)。拍が変化しないからこそ、変奏曲の変わり目でいきなり何かがガラッと転換してしまったかのような軽い衝撃が走ります。

さて、27番から29番まで一定の拍を持続させ、30番でグールドはようやく新しいテンポを導入するのですが、この瞬間が本当にドラマチックで、私は何度聴いても感動してしまいます。この映像でもグールドは感極まったように見えますね。この30番で変奏はいよいよ終わりを告げ、最後の最後で主題のアリアに再び辿り着きます。そしてこのアリアの演奏こそグールドが到達した極限の美しさといえるものです。私の妻は私以上にグールドのファンなのですが、彼女曰く、1955年版の最初のアリアから最後のアリアまでの流れを「線」とするなら、1981年版は「円」だとのことです。音楽による「永遠」の表現がバッハとグールドによって成し遂げられたことに、我々はただただ感謝するほかありません。

音の記憶 第4回 東の風、西の風 ドビュッシーの「西風の見たもの」

クロード・ドビュッシー(1862-1918)
ロマン派にはない自由な和声の概念を取り入れ、以後の音楽に多大な影響を与えた。東洋文化との親和性も高い。

本日はドビュッシーの誕生日ということで、短いバースデーポストを投稿します。

最近、五味康祐の剣豪小説「喪神」に深い感銘を受け、オーディオマニアとして知られているこの作家について調べていると、彼はなんとドビュッシーの前奏曲第1集・第7曲「西風の見たもの」より着想を得て本作を書いたらしい。改めて「西風を見たもの」を聴き、吹き荒れる不穏な風、殺気漲る緊張感、静寂と表裏一体の苛烈さなど、五味のエッセンスがしっかり凝縮されていることを確認。まさかドビュッシーが日本の戦国時代とリンクするとは!「西風が見たもの」が剣士たちの命を懸けた決闘であったなどと誰が想像しえただろうか?

「喪神」を読んでこのビデオを見ると、ミケランジェリが孤高の剣士「幻雲斎」に見えてくるから不思議だ

同じく前奏曲第1集に収められた「沈める寺」もお楽しみあれ

ちなみに五味康祐記念館では彼の所蔵したコレクションを聴くことのできるレコードコンサートを定期的に開催しているらしい。是非聴きにいきたい。

音の記憶 第3回 言葉と旋律の間にあるもの ヴェルディの「ファルスタッフ」

ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)
ロマン派イタリアオペラの代表的作曲家。活動当時より絶大な影響力と人気を誇った。

ヴェルディは有名曲が多数あるのにもかかわらず、「ファルスタッフ」のようなマイナーな作品を取り上げたのは、現在準備中の曲でいろいろと考える機会が多いから、という理由ですが、そういったことを抜きにしてもこれは素晴らしいオペラだと確信しています。

なぜ「ファルスタッフ」にマイナーで地味なイメージが付きまとうかを考えるに、まず、第一印象がよろしくない。「ヴェルディ・ファルスタッフ」でググると、太ったおっさんの画像がずらり。一般的には美男美女が登場するオペラを見たい、というのが人情というもの。しかし実際のところ、この「太ったおっさん」ファルスタッフは群像劇の中の一人物に過ぎず、このイメージだけで語られるのは非常に勿体ない。

「ファルスタッフ」といえばこういうイメージが定着している。太ったおっさんが歌いまくる「だけ」のオペラに思われても仕方がないのかもしれないが、実際はバラエティー豊かな歌唱が楽しめるコメディーなのである。

第二に、このオペラには観客が息を呑んで歌の魅力に酔いしれるアリアというものが殆どありません。アリアの魅力によってオペラの人気や知名度が左右されることもしばしばで、例えばヴェルディの「椿姫」を見たことがない人でも、劇中に登場するアリア「乾杯の歌」は御存知かもしれません。また、アリアによってオペラ全体の流れに緩急がつき、キャラクターの心理が浮き彫りになることで、より劇的な展開が生まれるのです。

ところがヴェルディの晩年の作品はー「ファルスタッフ」は彼の遺作ですがーあえてアリア的な要素を簡略化することで、ドラマに重点を置き、ストーリーのスピード感を優先している印象を受けます。耳に残るメロディーが登場してアリアに入ると思いきや、さっさと次の話題に移るわけです。ここで主体となるのは台詞=言葉であり、イタリア語を音楽的に色付けすることにかけては老練ともいえるヴェルディの独断場です。ヴェルディの晩年の2作がシェイクスピア作品を題材としていることも、彼のスタイルの変化を考える意味で興味深いですね。

超絶的に美しいテノールのソロにソプラノが加わり、今まさにクライマックスを迎えようとする瞬間に(3分20秒)第三者が乱入し、アリア的な高揚感が意識的に断ち切られる。まさに「膝カックン」な瞬間。

しかし「ファルスタッフ」が本当に凄いのは、ただストーリーがサラサラ流れるだけではなく、オペラ作曲家としてのヴェルディのサーヴィス精神が遺憾なく発揮されており、かつ音楽的な深みがあるからだと思います。では、いわばオペラの常套手段である、アリアを使わずにいかにそれをやってのけたのか?

「ファルスタッフ」ではドラマのテンションが最高潮に達した時に、突如としてステージ上の登場人物たちが同時にそれぞれの「持ち歌」を同時に歌い出す場面が度々表れます。ストーリー的な必然性はなく、どちらかというと流れが中断してしまうのですが、この宙づり感に私は一番感動しました。言葉に奉仕していた音楽が、不意に暴走を始め、意味を置き去りにして、音楽そのものに目覚めてしまったかのような爽快感、というか。それが一番顕著に表れるのは、キャスト総勢で「世界はすべて冗談、人間はすべて道化」と歌いあげるラストナンバーでしょう。「個」の集合体が「世界」を作り上げたかのような、圧巻のラストです。

最近、とあるオペラ作曲家の先生と「ファルスタッフ」について話していたとき、話題はやはりワーグナーへと移ったのですが(ヴェルディとワーグナーは同時代に生き、当然お互いを意識し合ったはずです)先生曰く「私はワーグナーを尊敬はするけど、深く愛してはいない。ヴェルディは『ファルスタッフ』でワーグナーの手法を取り入れてはいるが、更に感動的だ。」と仰っていました。私も深く共感せざるを得ない意見で、それはヴェルディのオペラが人間愛に根ざしているからではないかと思うのです。ヴェルディもワーグナーもオペラを通じて一つの「世界」を作り上げた。しかしヴェルディの人間に対する眼差しー惨めで滑稽な老人ファルスタッフから、親の目を忍んで逢引きを重ねる若い恋人たちまでーはどこまでも温かく、優しい。

80歳という老境に達して尚、オペラ=音楽に対する若々しい感性、瑞々しさを失わなかったヴェルディは、真に大作曲家と言える存在でしょう。

音の記憶 第2回 バロックに「ロック」な風景を:ヴィヴァルディの「四季」

アントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)
バロック時代における協奏曲形式の完成者といわれる。ヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院にて音楽を教え、「赤毛の司祭」という呼び名で知られるが、実際に聖職者でもあった。

今回は長いです。これから先は分かりませんけど(笑)。

さて、「音の記憶」で最初に取り上げる曲は、ヴィヴァルディの「四季」です。いきなりこれかよ!と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ストレートすぎて、自分でも若干恥ずかしい。

でも好きなんです、この曲。何度聴いても飽きない。新しい録音を見つけると、つい聴いてしまう。

かくいう私もヴィヴァルディ全般をバカにしていた時期がありました。同じテクニックを使い回してるだけじゃん!みたいな。でも、大学の講義で聴いた古楽アンサンブルのイル・ジャルディーノ・アルモニコ(Il Giardino Armonico)による「四季」の演奏を聴いて、曲のイメージがガラッと変わりました。

「ヴィヴァルディってこんなにロックだったのか!?」

私の演奏仲間の間でも、「実は俺もヴィヴァルディ好きなんだけど」とか「ヴィヴァルディってロックだよね」と言うひとも多く、ことさら斬新な意見ではないと思うんですけど、騙されたと思って「冬」の出だしを聴いてみてください(ページ下にリンク有)。静謐だけと不穏なタメを作っておいて、突然炸裂する縦ノリの低音部!

講義で聴いたのもまさにこの部分で、自分は今まで「四季」何を聴いてきたのだろう?と唖然としてしまいました。これをきっかけに古楽アンサンブルの録音を聴いていくと、今までに気づかなかった音が活き活きと再現されていました。鳥の声、夏の嵐、収穫祭の踊り、橇の走る音、などなど。

ところで、クラシック音楽に関して「同じ曲なのになぜいくつもの異なる録音があるのか?」という疑問をお持ちの方も多いかと思います。これはこのジャンルを知るうえでとても重要なポイントで、現在多くのポップス曲が演奏者と作曲者が一致している、あるいは特定のアーティストのために書き下ろされたオリジナル曲が演奏される環境に比べて、曲の「作者」が分かりにくいという状況を作っている。真の作者は作曲家なのか、パフォーマーなのか?

結論から言うと私は両方だと思いますし、作品と演奏者、双方の個性によって相乗効果が生まれるところがクラシック音楽の醍醐味だと確信しています。ところが、その違いが微妙すぎて大方のリスナーには「どれも一緒」に聴こえてしまう…。

本コラムの最初に「四季」を取り上げたのは、まさにこの問題について言及したかったからで、演奏者によってこれほど曲の解釈がドラマチックに変化した例も珍しいのです。論より証拠、まずは以下の二つの録音を比べてみてください。

① ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮

② イル・ジャルディーノ・アルモニコ

いかがでしょうか?同じ曲なのに音色からテンポ感から雰囲気まで何から何まで違うのがお分かりいただけたでしょうか。①はクラシックの王道ともいうべき、調和のとれた美しい演奏ですね。悪く言えばお行儀が良い。②はどこか歪(いびつ)で野蛮(ロック)な感じです。でもヴィヴァルディが工夫を凝らして描いた冬景色がビビッドに表現されていると思います。

ここで付け加えたいのですが、もちろん正しい解釈というものはありません。①のほうがしっとりしていて好きであっても構わないし、②のほうがカッコいい!という意見でもオッケーです。その日の気分によって、よりしっくりくる演奏があるかもしれません。一つの曲に様々な解釈が生まれことによって、多角的に音楽を楽しめるところが、クラシック音楽の強みなのです。

さて、このコラムでヴィヴァルディを取り上げる機会はもうないかもしれないので、最後にこの作曲家についての個人的な思い入れについて書きます。

「グロリア」のような合唱曲やオペラも好きですが、ヴァイオリニストでもあった彼の本領はやはり弦楽合奏曲にあるでしょう。その意味でも「四季」はアイディアの詰まった名曲だと思いますし、「調和の霊感」(L’Estro Armonico)シリーズも代表作といえるでしょう。最晩年に書かれた6つのチェロ・ソナタも素晴らしい。

革新的で深みのある音楽は他に沢山あるかもしれませんが、ヴィヴァルディの作品には音楽を音楽たらしめる要素が過不足なく収まっているのではないかと思うことがよくあります。残りの人生、ヴィヴァルディの音楽だけしか聴けないというシチュエーションになっても、案外楽しくやっていけるのかもしれない(←それは言い過ぎ)。つまり、複数の声部が様々なハーモニーを奏でること、この愉悦に勝るものはないのではないかと思うのです。

音の記憶 第1回 はじめに

「音の記憶」と題しまして、自分の好きな音楽、思い出に残る音楽、最近聴いている音楽について、演奏家なりの視点で綴っていきたいと考えています。大抵のことは長続きしないタイプなので、ここは思い切って100回連載を目標にして、1回1曲取り上げることで、自分なりの「名曲100選」というやつをリストアップしていこう、という目論みです。

まあしかし、あらかじめ断っておきたいのですが、私の独断と偏見、単純な好みで選んでいきますので、歴史的に重要な作品を体系立てて編んだ、「必須曲」のリストからは程遠い、かなりアンバランスなものになる可能性が大です(笑)。単純にこういった「無人島に持っていきたいアルバム」的なリスト作りが好きなので、という理由もあるのですが、自分に果たして100曲を選ぶことができるのか、という興味もあり、この連載を始めることにしました。

今はウェブ上にありとあらゆるジャンル、クオリティーの音楽がゴロゴロと転がっています。手軽にさまざまな演奏を聴くことができ、私にとっては夢のような状況なのですが、これから音楽をいろいろと聴いていきたい、という人にとってはあまりの多種多様ぶりで途方にくれるかもしれませんね。(実際にそういう話もたまに聞きます。)

このシリーズでは過去の記憶、現在の好奇心を頼りに、インターネットという情報のジャングルを彷徨いつつ、皆様と共に様々な発見ができれば、と願っています。