音の記憶 第3回 言葉と旋律の間にあるもの ヴェルディの「ファルスタッフ」

ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)
ロマン派イタリアオペラの代表的作曲家。活動当時より絶大な影響力と人気を誇った。

ヴェルディは有名曲が多数あるのにもかかわらず、「ファルスタッフ」のようなマイナーな作品を取り上げたのは、現在準備中の曲でいろいろと考える機会が多いから、という理由ですが、そういったことを抜きにしてもこれは素晴らしいオペラだと確信しています。

なぜ「ファルスタッフ」にマイナーで地味なイメージが付きまとうかを考えるに、まず、第一印象がよろしくない。「ヴェルディ・ファルスタッフ」でググると、太ったおっさんの画像がずらり。一般的には美男美女が登場するオペラを見たい、というのが人情というもの。しかし実際のところ、この「太ったおっさん」ファルスタッフは群像劇の中の一人物に過ぎず、このイメージだけで語られるのは非常に勿体ない。

「ファルスタッフ」といえばこういうイメージが定着している。太ったおっさんが歌いまくる「だけ」のオペラに思われても仕方がないのかもしれないが、実際はバラエティー豊かな歌唱が楽しめるコメディーなのである。

第二に、このオペラには観客が息を呑んで歌の魅力に酔いしれるアリアというものが殆どありません。アリアの魅力によってオペラの人気や知名度が左右されることもしばしばで、例えばヴェルディの「椿姫」を見たことがない人でも、劇中に登場するアリア「乾杯の歌」は御存知かもしれません。また、アリアによってオペラ全体の流れに緩急がつき、キャラクターの心理が浮き彫りになることで、より劇的な展開が生まれるのです。

ところがヴェルディの晩年の作品はー「ファルスタッフ」は彼の遺作ですがーあえてアリア的な要素を簡略化することで、ドラマに重点を置き、ストーリーのスピード感を優先している印象を受けます。耳に残るメロディーが登場してアリアに入ると思いきや、さっさと次の話題に移るわけです。ここで主体となるのは台詞=言葉であり、イタリア語を音楽的に色付けすることにかけては老練ともいえるヴェルディの独断場です。ヴェルディの晩年の2作がシェイクスピア作品を題材としていることも、彼のスタイルの変化を考える意味で興味深いですね。

超絶的に美しいテノールのソロにソプラノが加わり、今まさにクライマックスを迎えようとする瞬間に(3分20秒)第三者が乱入し、アリア的な高揚感が意識的に断ち切られる。まさに「膝カックン」な瞬間。

しかし「ファルスタッフ」が本当に凄いのは、ただストーリーがサラサラ流れるだけではなく、オペラ作曲家としてのヴェルディのサーヴィス精神が遺憾なく発揮されており、かつ音楽的な深みがあるからだと思います。では、いわばオペラの常套手段である、アリアを使わずにいかにそれをやってのけたのか?

「ファルスタッフ」ではドラマのテンションが最高潮に達した時に、突如としてステージ上の登場人物たちが同時にそれぞれの「持ち歌」を同時に歌い出す場面が度々表れます。ストーリー的な必然性はなく、どちらかというと流れが中断してしまうのですが、この宙づり感に私は一番感動しました。言葉に奉仕していた音楽が、不意に暴走を始め、意味を置き去りにして、音楽そのものに目覚めてしまったかのような爽快感、というか。それが一番顕著に表れるのは、キャスト総勢で「世界はすべて冗談、人間はすべて道化」と歌いあげるラストナンバーでしょう。「個」の集合体が「世界」を作り上げたかのような、圧巻のラストです。

最近、とあるオペラ作曲家の先生と「ファルスタッフ」について話していたとき、話題はやはりワーグナーへと移ったのですが(ヴェルディとワーグナーは同時代に生き、当然お互いを意識し合ったはずです)先生曰く「私はワーグナーを尊敬はするけど、深く愛してはいない。ヴェルディは『ファルスタッフ』でワーグナーの手法を取り入れてはいるが、更に感動的だ。」と仰っていました。私も深く共感せざるを得ない意見で、それはヴェルディのオペラが人間愛に根ざしているからではないかと思うのです。ヴェルディもワーグナーもオペラを通じて一つの「世界」を作り上げた。しかしヴェルディの人間に対する眼差しー惨めで滑稽な老人ファルスタッフから、親の目を忍んで逢引きを重ねる若い恋人たちまでーはどこまでも温かく、優しい。

80歳という老境に達して尚、オペラ=音楽に対する若々しい感性、瑞々しさを失わなかったヴェルディは、真に大作曲家と言える存在でしょう。

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